痛みに助けられる
痛いのは嫌なものですね。
(痛いのが好きな人もいるかもしれませんが、、、。)
でも、体のどこかが痛いのはそこに何かあるよ、という体からのお知らせ、サインです。
お知らせがあるからこそそれに気付くことができる。
助けられてる。
最初は少し「動かしずらいな」から始まって、それが「痛いな」となる。
ほっておくと痛いこともわからなくなってくる、当たり前になってくる。
コリはどんどん奥に引っ込んでいきます。
感覚が鈍くなってどこが痛いのかわからなくなっていき、常に重い、だるい、全体的に痛い、となってくる。
日常が忙しく、常に頭が働いていて過去や未来に生きていると内側に意識を向ける余裕がない。
さらにほっておけば、機能、構造自体が壊れ病名のつくことになる。
本当に機能、構造が壊れてしまうとなかなか元に戻すのは難しくなってくる。
私たちの社会からは、ちょっとぐらい痛かったり、病気だったりしても頑張って努力することを強いられるので、むしろ痛み、苦しみに対して鈍感でないと不適合になってしまうような側面もある。
今の日本の「国」や「政治」や「システム」は、普通の人々がのびのび健康的に幸せに好きなように暮らしていくことを全く望んではいない、むしろなるべく我慢を我慢とも思わず、自分で判断も出来ず、従順に「常識」という洗脳のシステムのなかでうすうす死んではいないけど生きてもいない状態でいることを要求してくる。
奴隷は自由にしてはいけないということですね。
かといって「システム」や何かに対する怒り、が動機のパンクな行動は動機が「怒り」なので、いくら正しい様でもやっぱり幸せな現実を創造することにはつながらない。
病気になったり、何か人生で大きな問題に直面した時こそ、何が本当に大事なことなのか改めて振り返ることができて気付けるチャンス。
私自身もA型肝炎になったり、ぎっくり腰から椎間板ヘルニアになったりして初めて健康でいられることのありがたさに気付けました。
そして操体法を通して、「気持ちが良い」(後味が悪くない)ことは体に良い!というシンプルで深遠な自然の法則を知りました。
後から振り返ると、その出来事全体が大きな宇宙の愛だった、ということに気付きます。
ただちょっと調子が良くなるとすぐに人はそのありがたみを忘れてしまうものです。
長い時間かかって自分で作り上げてしまった物を元に戻していくのには、やはりすぐに、というわけにはいかず、そして元に戻ってからもそれを保っていくには何かを継続的に続けていく必要が有る。
人の行動はその人が自分でも気付いていない深いところで信じている信念体系によって大きく左右されているから、「これがいい!」と頭で考えてする行動はなかなか継続的に続けていくのが難しい。
頭の考えでなく、体が「気持ちが良い」と感じることであれば割と継続していくのは難しくありません。
呼吸法や体の動きを毎日すこしずつでも続けていれば、体の奥深いところに埋め込まれた様になっているコリも、薄皮を剥いでいく様に少しずつ変化していきます。
毎日それをやることが一度習慣になってしまえば、今度はそれをやらないとなんか調子が変、となってきます。そうなってはじめて『身についた」ということです。
ものすごいスピードで展開していくこの混乱した時代を、自由に快適に、好きなことを思いっきりやって、自分の潜在的な可能性、創造性、ポテンシャルを最大限に発揮するには、まず体が健康で間に合っていないと!
最近、友人に起きた出来事と、自分の経験を振り返って書きました。
人生全体で見せてくれたその友人に感謝します。ありがとう。命の可能性を信じよう!
屋久島で月2回ペースで行っている
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